理事長室

「熊本城と大阪城」~交差する不思議な縁~

  • 2020.4.27
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 肥後は昔から大国と言われています。土地は肥沃で、温暖な気候は豊かな作物の恵みを与えてきました。その中心は広い熊本平野であり、奈良時代の国府は、現在の熊本県庁付近に置かれていました。水前寺付近に置いたのは、水上交通の利便性と豊富な湧水ではないかと推測できます。
 加藤清正が北肥後の大名として抜擢されたのは、1586年、まだ30歳半ばの若さでした。城持大名は戦国武将にとっては憧れです。今の企業経営者で言えば、東証一部の社長になったような感覚でしょう。まず、清正は城を築き、城下町を作る作業に入ります。戦国時代の城下町建設の最優先課題は、城の防衛力と城下町づくりです。国府があった水前寺界隈も有力な候補だったと思います。江津湖を使えば、北側に堀を通すだけで、安価に堅牢な水域ができますし、土地も広いので城下町も無理なく縄張りできる。また、山城なら龍田山の方が壮大な城郭都市ができそうです。もし当時幕僚の中に私がいたなら、そのように進言したと思います。ただ、現実は小さな出城があった茶臼山丘陵地に莫大な労力をかけて熊本城を建設します。清正は何を考えていたのか、なぜこの場所に目を付けたのでしょうか。
 この疑問に答えてくれたのが、武村公太郎氏の「日本史の謎は地形から解ける」という本でした。縄文前期には現在より海面が5m上昇していますが、その再現地図で大阪地域を見ると、大阪平野が海の底に沈み、上町台地がタケノコのように上に伸びた姿で浮かび上がります。その台地の先端に大阪城があります。大阪地域を抑えるという戦略から見た大阪城の拠点性がここにあると指摘しています。「そうか、清正は秀吉にリスペクトしていたのだ」
 植木台地から南に伸び、熊本平野にちょうど氷柱のように台地が伸びている先端に熊本城が位置しています。その姿は上下が逆さですが、大阪城の地形と瓜二つなのです。清正は幼い時から秀吉に育てられ、侍大将から大名まで取り立てられました。親代わりであり、師匠でもある秀吉にに褒められるような城を作りたい。清正にとって、大阪城をモデルとして開発できるこの地以外の選択肢は見えなかったのでしょう。NHKのブラタモリで熊本城の特集があった時、「熊本城はやりすぎ城」というお題でしたが、そのこだわりの源泉は秀吉だったのです。熊本城は8年の歳月をかけ、1600年に熊本城天守が完成します。その時、清正が一番見せたかったであろう秀吉はすでに他界しています。
 モデルだった大阪城はどうなったのか、その年に関ケ原の戦いが勃発、実権は徳川家康に移ります。意地を見せたのは大坂冬の陣です。20万近い将兵を動員して攻められますが、難攻不落で容易に落ちません。結局、計略で堀を埋め、1615年に豊臣氏は大阪城とともに焼滅します。その後、大阪城は徳川氏によって再建され、西国支配の要となります。戊辰戦争が始まった時、最後の将軍徳川慶喜は大阪城にいました。先の見える慶喜はさっさと逃げたため、焼けることはありませんでしたが、戦に弱い城というイメージがついてしまったのは、やや気の毒です。
 一方、熊本城も清正の死後、加藤家が改易となり、細川氏が引き継ぐことになります。江戸時代は天下太平です。結局清正こだわりの防御力も真価を発揮することなく、明治時代を迎え、役目を終えたかに思えたときに西南の役が起こります。攻めたのは、薩軍の総帥、大阪城の慶喜を追い詰めた西郷隆盛です。守る政府軍の守備隊隊長はは谷干城、参謀の中にはのちに日露戦争を勝利に導いた児玉源太郎もいました。地形から見て、大坂の陣で真田幸村が築いた真田丸は京町あたりになるでしょう。ただ、そのような出城を作った形跡は全くありません。
 城はその時代の武器の能力で変化します。江戸初期の最強兵器は種子島でした。鉄砲の射程以上に堀の幅をとれば防御は完璧になります。しかし、時代は明治初期、アームストロング砲の時代です。天守閣はもはや大砲の的にしかなりません。日本の城郭がほとんど軍事的に無力化する中、奇跡的に熊本城の広大な敷地と清正が築いた堅固な石垣が防御要塞として機能しました。「政府軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ。」隆盛がのちにこう語ったという伝承があります。多分熊本人の誰かが作った話と思いますが、熊本城は陸軍の中で最強と詠われた第六師団の根拠となり、不落城神話は語り継がれることになります。ちなみに最弱の軍隊は大坂第四師団(八連隊)という噂です。