理事長室

「熊本の街は川の北側にある必然」~街並みにも歴史がある~

  • 2020.4.20
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 熊本市、八代市、玉名市などは江戸時代に成立した熊本の主要都市は主要河川の北側に中心街を形成しています。これは偶然ではなく必然です。
 発端は1600年に起こった天下分け目の関ケ原の戦い。両軍15万人の将兵が生き残りをかけ、様々な駆け引きが交差した合戦ですが、その中で奇妙な動きをした一団がいました。島津義弘とその一党です。西軍に参加していた島津は屈強の兵として恐れられていましたが、関ケ原に行った兵力は、わずか3000人でした。一説では自らが提案する作戦を採用されず、へそを曲げていたとも言われています。合戦当日、実質的な西軍の大将である石田三成のそばに陣を構えたものの、激戦になっても、何度催促されてもじっと動きません。小早川秀秋の裏切りで西軍が総崩れになっても動きません。動いたのは、周囲が敵の東軍だらけになった時、もはや逃げるしかない形勢でした。その時、義弘は前方にあった家康本陣の真腹を突っ切り、なんと前に逃げたのです。当然、関ケ原にひしめいていた敵軍の袋叩きに合うのですが、死に物狂いの奮戦に後を追う東軍の方が逆にたじたじとなりました。徳川四天王の井伊直正は、この時の鉄砲傷がもとで命を落とすことになります。結局、島津の兵士は大部分が壮絶な戦士をして、わずか数十名になりますが、総大将の義弘は戦線からの脱出に成功します。義弘の狙いはただ一つ。島津軍の強さを強烈にアピールすることだったようです。そして、この狙いは見事に的中します。
関ケ原(島津本陣跡)
 関ケ原(島津本陣跡)
西軍に参加した大名が領地を没収される中、島津氏は本領を安堵されたのです。天下を取った徳川家康でしたが、関ケ原の戦いも豊臣恩顧の大名の協力でやっと勝った状態で、政権の基盤はまだまだ脆弱でした。島津が死に物狂いになった時の兵の強さは改めて身に染みています。南の果ての鹿児島まで遠征しても、戦が長期化すれば不測の事態も想定されます。ここは辛抱と思ったのでしょう。
 しかし、苦労人の家康としてはやはり心配でなりません。そこで密かに清正を呼びます。後年、豊臣家の存続をめぐり、清正の死はは家康が毒饅頭で暗殺したのではと噂が出るくらい両者の関係は緊張しますが、当時は友好関係にありました。
「清正殿の合力もあり、ようやく天下は収まったが、まだまだじゃ、とくに島津だな」
「ご懸念には及ばず、万が一のことあらば、この清正が見事封じてみせましょう」
「それは重畳、頼りにしておるぞ」
「つきましては、家康様にお願いの儀あり」
「なんじゃ」
「築城した熊本城は特に南の備えが肝要。さらに鉄壁の守りにしたいと存じます」
「判った、存分にいたせ」
家康にすれば、毒を以って毒を制する発想。清正の金で島津対策が打てれば、一石二鳥です。一方、清正もこれで念願の城づくりが堂々とできます。以上は私の創作ですが、こんな密談にあったに違いないと思います。
 前置きが長くなりましたが、川の北に街ができた必然とは対島津対策です。当時の町はは、米の集荷場としての機能を持っていました。この兵糧を易々と取られてはたまりません。当然、南からやってくるであろう薩摩郡の反対側に米蔵を作ったのです。このことは教科書に載っていないし、暗黙の事実ですから古文書にも記述はないと思います。ただ、司馬遼太郎氏の随筆のなかに、これを彷彿するような記述があります。「鍋の中蓋みたいなものですね。島津が下から沸騰しても、鍋からこぼれないように中蓋で抑えたのが熊本城です。」
 ちなみに、豊臣家が滅亡した1615年に江戸幕府は一国一城令を出しますが、麦島城は特例で廃棄を逃れています。なお、麦島城は球磨川の中州にあり、1619年の八代地震で倒壊しますが、一国一城で他国では各地の出城を壊している中、城の再建が許されます。それもその場では再建せず、球磨川の北側に現在の八代城を造営します。もう清正は死んでいましたが、「島津の抑えは熊本」というこの基本原則は引き継がれ、さらに細川家にも受け継がれることになります。
 徳川の世が去り、1877年西南戦争が勃発します。南から来た西郷軍は熊本城を包囲、さらに北に向かった部隊は玉名高瀬の米蔵を襲いますが、要害の守りに阻まれます。隆盛の末弟、西郷小兵衛は菊池川河畔で戦死しています。基本原則がすっかり忘れられた頃に、事件が起こるのは歴史の皮肉でしょう。