理事長室

「熊本の産業政策は清正から始まる。」~やっぱり清正公さんは偉かった~

  • 2020.4.14
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 賤ヶ岳の七本槍、虎退治で有名な加藤清正は武功一辺倒の猪武者の印象が強いですが、熊本城築城を筆頭に大規模な土木事業で、今の熊本都市圏の原型を作った都市プランナーでもあります。
ただ、その壮大な土木工事をやる資金をどのように工面したのかは定かではありません。二度の朝鮮への出兵も大きな負担になっていたと思います。もし、加減せず農民から搾り取ったなら、お隣の島原ののような乱がおこったでしょう。熊本人の気質は「肥後の鍬形」といわれるくらいに大将になりたがり、統制を嫌います。前任の佐々成政は検地を急いで、国人の反乱を招き、結局は切腹となりました。治めるには大変面倒な土地柄であります。
 たぶん南蛮貿易もやっていたようです。関ケ原の戦い以降、併合した旧小西氏の家臣も多く抱えていたようですし、小西氏の元は堺の商人でした。結局、儲けた金はニューディール政策のように大規模土木工事を興し、人を集め、金を配ったのでしょう。ともかく、人は飯を食わせてくれる親分に付いていくものです。混乱の戦国期はなおさらでしょう。
 もう一つ、清正公の功績の中であまり知られていないのが、産業政策プランナーの側面です。私は熊本の産業政策は加藤清正から始まったと思っている。領内の米生産を増産して、これを上方で売り捌く、新ビジネスを全国に先駆けて実践しました。これは現代にまで続く熊本の産業ビジョンの骨格になっています。
 中世から近世への転換点は経済の仕組みが自給自足経済から大交易経済へ移行したことでした。判りやすい例が織田信長の城下町政策です。365日いつでも兵力が動員できるよう、部下達を各地域から城下に住まわせました。そして。楽市楽座で町人を集めます。当然、都市住民向けの大量の食料や日用品が必要になります。当時、京都だけでなく、大阪、そして江戸が大都市に変貌しつつありました。「そこに米を持って行ったら、儲かるではないか。」秀吉の側近だった清正も当然そう考えたと思います。
 まずやったことは、熊本の一級河川である、菊池川、白川、緑川、球磨川の最下流に、それぞれ、玉名、高橋、川尻、八代の4つの町を作り、熊本城下と合わせて5つの町を独立した行政組織としました。この町の機能は流域から集めた米を一旦集積して、大阪に送り出すことです。江戸初期には国内沿岸の巡る航路が整備され、船による大量輸送システムが花開きますが、それを先取りして領内を整備したのです。
 日本の川は長さが短いのに雨が多いため、流量に差があるのが宿命で、安定した水運を確保するためには、増水対策と渇水対策を同時に行わなければなりません。清正は白川では坪井川を分留、菊池川では高瀬側に井手を、球磨川では前川を使って巧みに分流しています。これを可能にしたのは、熊本城の築城を担った配下の土木技術者集団だったでしょう。
 この技術を使って、同時に大規模な新田開発も行っています。当時はポンプがない時代です。どうやって稲作の命である水を引くかが最大の課題なんですが、上流から井手(用水路)を引く手法で、不毛の荒れ地を次々に新田に変えていきました。この過程で種山石工たちが生まれます。有名な菊陽の「鼻ぐり井手」、矢部の「通潤橋」などはその技術力の進化の歴史でもあります。特筆すべきことは、このビジネスモデルは江戸時代約270年間、揺らぐことなく発展し続けたことです。肥後の石高は54万石であるが、幕末には200万石くらいあったのではないかという研究者もいます。戦争に強いだけでなく、生活の礎を築いたことが、熊本県民が「清正公さん(せいしょこさん)」と呼ぶ由縁だと思います。
 この大成功は熊本県民の気質にも大きな影響を与え、熊本の企業の強み、弱みにもつながっているように思います。強みは、技術力重視の姿勢と最後までやり抜く根性。そして、弱みは、一つの成功モデルに頼りすぎた弊害でしょう。新しい変化に対する頑迷さ、危機感の無さでもあります。時代の変革に対応しようとする経営者は多くの場合、仲間から変人扱いされてしまうのが熊本です。