理事長室

熊本駅の立地条件を考える(その1)

  • 2020.5.7
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 熊本都市圏の大きな弱点は交通結束拠点がバラバラなことです。陸、海、空と交通インフラはそこそこにありますが、繋がっていません。それに輪をかけて、県庁、運動公園、県立劇場と主だった集客施設が軌道交通の線上に存在していません。これほど見事な「ちぐはぐ」ぶりは他の地方中核都市の中でも珍しいのではないでしょうか。
 どうしてこうなってしまったのでしょうか。ボタンの掛け違いがいつから始まったのか考えていたら、熊本駅にぶつかりました。そもそも何であの場所なのか。もっといい場所があったのではないかという疑問です。
 現在、新しい熊本駅の建設とともに、周辺地域の再開発もやっと動き出しましたが、これまで政令指定都市の玄関口でありながら、発展しなかったのには理由があります。まず中心部から遠い。駅から熊本城まで3km程度ですが、とても歩く気にはなりません。一応路面電車が通っていますが、直線ではなく碁盤面の街路を蛇行しながら進みます。ちょうど四角形の対極に位置している格好です。次に土地が狭いことです。西側には山が迫っています。東側は白川と坪井川の合流地点で大きく西側に大きくせり出しています。駅前の開発する土地が狭いのです。この広い熊本平野の中で、よりにもよって最悪の場所に駅を立地させたと言っていいでしょう。初めに新町あたりに駅を作っていれば、花畑町とは至近距離で連続した繁華街を形成したに違いありません。逆に言えば、なぜそうしなかったのでしょうか。
 熊本駅(春日停留所)と上熊本駅(池田停留所)が開設されたのは明治24年です。同年に北の方では青森駅まで開通しています。新橋、品川間に初めて陸蒸気が走ってから、わずか20年足らずで日本列島の縦ラインの骨格が完成したことになります。日清戦争が3年後に起こりますが、日本中の軍需物資を効果的に送るインフラの準備が整ったともいえるでしょう。鉄道事業は文明開化の代表であり、富国強兵がスローガンだった明治政府の正当性を国民にアピールする国家プロジェクトでもありました。しかし、政府の看板政策に庶民がもろ手を挙げて協力したかといえば疑問です。特に明治になって冷や飯を食わされた士族には反発もあったのではないでしょうか。「鉄道は来るのは仕方ないが、駅は俺たちの城から離れろ。」という思いだったのではないでしょうか。
 インターネットは便利です。グーグルで城下町の主要な駅と城の距離を検索すると、たちどころに教えてくれます。まず、東京駅は皇居外苑から直線に600mほどの道があります。海外の賓客が皇居を訪れるために作ったパレードの道です。この構造を見れば、日本の首都の表玄関として東京駅は国の威信をかけて作られたのは間違いありません。以下東海道を西に向かい主要駅を抜粋してみました。
(表1)

都市名 静岡 名古屋 京都 大阪 岡山 広島 福岡 熊本 鹿児島
距離㎞ 1.7 2.8 3.3 4.2 1.8 1.5 1.7 2.8 3.5

・福岡は天神駅を対象とした

 名古屋、京都、大阪は距離がありますが、支線の最寄駅からはいずれも1Km以下の距離にあります。当時から大都市であり、幹線を通すには物理的な障害もあったと思われます。比較対象としては適当でないでしょう。これを除くと2Km以上あるのは、熊本と鹿児島です。特に線路が通っていて、城の近くに駅を作ることが可能なのに、あえてずらしている点に注目したいと思います。
 ちなみに、明治初期に士族の反乱がおこった熊本(神風連の乱)鹿児島(西南の役)以外の萩(萩の乱)は東萩駅まで2.8km、佐賀(佐賀の乱)は佐賀駅までは、2.2kmでした。鹿児島駅が明治34年、萩駅は大正14年の開設されており、さすがに考えすぎではないかとも思いますが、駅を待望する雰囲気ばかりではなく、その温度差がこの距離に反映されているように思います。